メインテーマ(My Column)
テーマを絞った随筆(エッセイ)集です
|
|
独身男4人が集まって行われた一昨日の飲み会。一昔前に行ったツーリングの話題で
盛り上がってしまった。不思議にも、全員がこの話題に参加している。考えてみれば、この
メンバーで遠州は寸又峡までツーリングに行ったのだった。当時に誰が参加したのかも忘
れるくらいに遠い過去の出来事のように思えてしまう。
確かに、今思い起こせば、変な宿だった。いや、寸又峡という土地が異様だったのかも
しれない。
今はもう、当時に泊まった宿の名称は忘れてしまった。外観や料金ランクは、ごく普通の
一軒宿だった。変わっていたのは夕食風景。宴会場の大広間で、宿泊客全員がグループ
ごと各テーブルに着いた。それを前に女将の挨拶が始まる。
「ここで旅行者同士が袖触れあうのも何かの縁、端のグループから、代表者が自己紹介
をして下さい」
挨拶が一通り終わると、今度は、
「端のグループから、カラオケの披露をして下さい」
かつての大ヒット曲「Hotel California」の歌詞を思わせるような旅館だった。そして、たった
独りでその場に居合わせた若い女性客は終始白けっぱなしだった。
日本全国、いや世界数国を旅した経験を持つ私でも、こんなもてなしを受けた宿の経験
はかつて無い。現に、その時のツーリングでは、雨に降られた他に記憶に残っていること
は何もない。ただ、その女性のひとり参加でやって来た旅行目的だけが気にはなってはい
たが。
その当時、ツーリングの目的地として寸又峡を選考したのは私自身である。大井川近辺
の旅の経験が無いというのがその第1の理由であるが、今更白状すれば、「世の大事件”
金嬉老(キン・キロウ)事件”の現場を見てみたい」という思惑があったのだ。現・40才の年
齢を境に、この事件を記憶に留めるか否かの年代層が分割できるはずである。尚、この
事件に関して、一部の世代から「阿部定事件」との関連を指摘されたが、そちらの事件は
戦前に起こった事件で、筆者は知る由もありません。
最後に、「金嬉老(キン・キロウ)事件」について概要記事を貼り付けて本コラムを終了し
ます。私に、こんなコラムを書かせた一昨日の酒宴・同席者たちに感謝の意を述べたいと
思います。
昭和43年2月20日在留韓国人の金嬉老が、静岡県・清水市のクラブで債権取り立て
のトラブルで暴力団員2人を射殺して逃走した。金嬉老はライフル銃とダイナマイトを持っ
て県下の寸又(すまた)峡温泉にある旅館「ふじみ」に逃げ込み、泊り客13人を人質に取
り5日間篭城した。
犯罪行為は決して許される訳ではないが、この事件は改めて差別問題を浮き彫りにし、
金嬉老への同情も高まった。金は、在留韓国人として、貧家ではあるが母に大事に育てら
れた。母子家庭である母親は金の成長を楽しみに苦労を重ねてきた。金自身は母親想い
の青年として成長したが、その過程で幾度も差別を経験し、社会に対して不満を抱いてい
た。
事件の本質は、借金返済の問題が原因で暴力団を射殺した殺人事件だが、篭城先の
旅館でテレビ・ラジオ・新聞などの報道関係者を玄関先あるいは部屋に入れて「差別問題
で不満がある」ことを語り、殺人事件を差別問題へと誘導していった。
また、静岡市のA刑事に対して、差別用語で侮辱されたことなどに対して「謝罪要求」し、
A刑事がテレビで「謝罪」を行う。金嬉老は、態度が気に入らないともう一度謝罪をやり直
しさせたり、マスコミを思い通りに振り回した。結局5日後、記者に化けた警官が金嬉老を
取り押さえて逮捕となった。金嬉老は、昭和50年に最高裁で無期懲役が確定した。
その後、仮釈放された金嬉老は高齢にもかかわらず韓国に帰国した。その時の韓国世
論は英雄扱いであった。
|
|
|
|