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テーマを絞った随筆(エッセイ)集です

北朝鮮による拉致問題・有本恵子さんの場合 2004/05/30
 北朝鮮による多くの拉致被害者たちは、私自身と年齢が非常に近い。横田めぐみさん はほぼ私と同い年。有本さんは学年で3年上である。 拉致当時の年月を私の生活に当 てはめてみれば、青春時代真っ只中。そんな世代でありながら、自由を奪われた彼らの 気持ちを察しても計り知れない。そんな縁から私は拉致問題については特に関心を持っ ているつもりである。
 小泉首相の再訪朝によっても明らかにされなかった10名の安否不明者の情報である が、前回の首脳会談の際には死亡が発表された有本恵子さん。その公表によると、死因 は一酸化炭素中毒で、遺骨も洪水によって流されたとされている。
 有本さんの場合は、他の拉致被害者とは違って、日本国内の海岸付近で工作員によっ て拉致されたわけではない。今一度、拉致の経緯を整理してみた。
 昭和58(1983)年8月9日、ロンドンでの語学留学から帰国する予定の当日実家に「仕事 が見つかる 帰国遅れる 恵子」という電報が実家に届いた。その後10月中旬にコペンハ ーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。実はこの時、「市場調査の仕事が ある」と騙して、「特殊機関メンバー」が彼女を北朝鮮行へ拉致したのであるが、70年のよ ど号ハイジャック犯グループの元妻が実際に拉致に関与した。
 有本さんが北朝鮮にいることは札幌市出身の石岡亨さんから昭和63(1988)年9月6日に 実家に届いた手紙で分かった。手紙はポーランドから送られており、海外旅行者に第3国 からの投函を託したものと思われる。最近になってこの手紙に有本恵子さんと石岡亨さん の間にできた子供と推定される乳児の写真が添えられていたことが分かった。手紙を受 け取った家族は、日本政府に調査の依頼をするが、(相手国が北朝鮮だけに)取り合って もらえない。家族はその後、朝鮮労連に手紙の件を報告してしまう。
 1988年11月4日の夜、チャガン(慈江)道ヒチョン(熙川)市内の招待所にて寝ている 途中、暖房用の石炭ガス中毒で子どもを含む家族全員が死亡。偶然にも、家族が手紙を 受け取ってから、丁度2ヶ月後の事故・死亡となる。
 遺骨は家族と共にヒチョン(熙川)市ピョンウォン(平院)洞に葬られたが、1995年8月1 7日から18日の大洪水による土砂崩れで流出。





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